金子光晴 ちくま日本文学 no038 1895-1975

2009年8月10日 第1刷発行

 

 エロ詩人です。老エロ。

 

人間の悲劇より

 もう一篇の詩

  恋人よ。

  たうとう僕は

  あなたのうんこになりました。

  ・・

恋人よ。あなたは、もはや

うんことなった僕に気づくよしなく

ぎい、ばたんと出ていってしまった。

 

愛情55

あの瞬間だけのために、男たちは、なんべんでも恋をする。

あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食ひ、生きて来たかのように。

 男の舌が女の唇を割ったそのあとで、女のはうから、おづおづと、

 男の口に舌をさしいれてくるあの瞬間のおもひのために。

 

愛情60

 ソアサンヌフ(69)は、素馨(ジャスミン)の甘さがにほふ。

 

愛情69

 必死に抱きあったままのふたりが

 うへになり、したになり、ころがって

 はてしもしらず辷りこんでいった傾斜を、そのゆくはてを

 落毛が、はなれてながめてゐた

 

ほりだしものより

 80歳で刊行したらしいのですが。

 春慶寺の木箱から本を取り出して読んだ中に「男根の絵があり、亀頭が蓮華の花になっていた。説明には、釈尊のもちもので、女のもののなかで、花がひらき、喜悦かぎりなく、世の女は、それによって済度をうけると、無上の醍醐味を味わいつくし、再び人界の快楽にこころがなくなり、仏法に帰依して、正覚をうること疑いなし、というようなことが書いてあった。その後、ぼくは、そんな本をどこでもみたことがない。仏は、なにごとも超弩級でなければならないという観念から、そこまで行ったものであろう」と。

 節分の豆まきの日の夜、「ころがっている豆をさがして須弥壇のうらまでまわっていってみると、そこで、みてはならないものをみてしまった」「女は、近くの裕福な八百屋の娘であることがわかった」「幼にして、ぼくがはじめて眼前にした男女のまじわりの姿であった」(昭和33年)とあるので、63歳の作品のようです。

 

解説は「女へのまなざし」というタイトルで茨城のり子が執筆。

「よく飽きもせず女を視続けたものだと感心する」

「セックスに関しても、『天地の無窮に寄りつくために、人間に残されているのはセックスしかない』

というところがあって、今までのところ、これにまさるセックスの定義は見つけ出せないでいる」と。

一方で言葉の鮮烈さは思考の鮮烈さということでもある、とも評している。

「女に関する<免許皆伝>」とも。「日本人の幅を大きく拡げてくれた人」とも。そして「ドリアンのような果実」とも。

 

なんと評価すればよいのか、頭の中がズキンズキンしている、そんな感じです。

 

でも、

 

胡桃割り

を読むと、魯迅と郁達夫が二人つれたって歩いている姿をよく見かけた、内山書店でもこの二人と出会うことが多かった、内山書店の書棚が革命論者の血となり肉となったことを思い合わせると、たいへんな役割を果たした、大変な度胸と述べているから、このあたりは物事の本質をズバリ突く才覚が間違いなくあった人でもあったようです。

 

色々な面をお持ちの御仁だったようですね。