ネルソン・マンデラ アパルトヘイトを終焉させた英雄 筑摩書房編集部

2014年9月25日初版第1刷発行

 

ロベン島の刑務所では、3歩分の幅しかない独房で気温5度以下の真冬にも薄い衣類1枚、面会も手紙もマンデラは半年に一度きりしか認められない。この独房で、マンデラは、毎日腿上げ45分、指立て伏せ100回、腹筋200回、スクワット50回を続ける。ロンドン大学法学部の法科の通信教育を受講し、アフリカーンス語の勉強も始める。次に仲間と一緒に待遇改善を働きかける。一方、1946年生まれのスティーヴ・ビコは、”黒い私は黒いままで完全な存在なのだ。「黒さの価値」に立脚して誇りをもって生きよう”というメッセージを発信。ソウェト蜂起の際に逮捕され拷問の末に30歳の若さで殺されてしまうが、若い世代に強い影響を与える。そんな若者が囚人としてロベン島に送られると、マンデラは言うことに耳を傾けた上で言ってきかせる。そのため、いつしかロベン島は「マンデラ大学」と呼ばれるように。

マンデラの27年間の獄中生活は、ロベン島での18年間と内陸のポールズムーア刑務所の8年間に分かれる。ロベン島でマンデラが有名になり過ぎたので切り離す意図で移される。マンデラは「人々の話をよく聞き、よく考えた上で、決断を下すときは一人で」というスタイルで司法大臣に書簡を書き、また3年後にポタ大統領とも会見し、その後のデクラーク大統領とも会見した後、突如、デクラーク大統領は1990年2月2日、マンデラ釈放を宣言し、11日釈放される。広場に集まった群衆に向けて、「私は預言者としてでなく、国民の皆さんの卑しいしもべとしてここに立っています。私は人生の残る歳月を、皆さんの手にゆだねます」と語りかける。ところが、その後、黒人同士の暴力が激化。特に若手政治家のクリス・ハニが凶弾に倒れた際は暴動が起きる寸前に至るが、高潔なマンデラがテレビ・ラジオで全国民にアフリカーナー語で語り掛け、なんとか内戦が回避される。1994年4月、南アフリカ史上初めて全人種選挙が行われ、三党連立内閣が成立。そしてマンデラが第8代大統領に就任。その前年の1993年、マンデラとデクラークは二人揃ってノーベル賞平和賞を受賞。1996年には新憲法が制定され、人種及びジェンダー差別を禁止。虹の国と呼ばれ始める。1995年、アパルトヘイトの象徴だったラグビーのワールドカップ南アフリカに招致することを決め、徐々に黒人の理解を勝ち取って、決勝戦では選手とおそろいのジャージを着てスタジアムに表れ、国民一体の中、初参加・初開催で優勝する。

ツツ大司教が委員長を務めた真実和解委員会は1996年から2000年にかけて活動し、和解の試みが行われる。“許す。しかし、忘れない”の精神で活動していたマンデラには寛容過ぎるという批判が絶えることはなかった。モザンビークのマシュル大統領が1986年に謎の飛行機事故で亡くなるが、その夫人と80歳の誕生日に結婚。二国の関係が結実するような出来事だった。マンデラは1期5年でやめるという約束を守って81歳で引退。2013年12月5日逝去、95歳。

「私は、異常な状況によってリーダーになった、普通の人間です」この言葉で締めくくられている。巻末エッセイは緒方貞子さん。「ネルソン・マンデラと『人間性の徹底』」ロベン島に収監された盟友が明らかにしたマンデラの言葉「自由への道は、単なる政治的な民主化で終わることなく、万人の参画するインクルーシブな社会をめざし継続する、その過程での試行錯誤を通じて社会全体の“人間性(humanity)”を高めていけば良い、人は、他人のために行動をおこした時こそ、本当の人間になれるのだから」を紹介されている。

噛みしめたい言葉である。