三国志 第12巻 宮城谷昌光

2015年4月10日第1刷 2021年7月25日第2刷

 

裏表紙「成都に迫る魏軍に、蜀の群臣は揺れる。一戦もせず降伏を決意した劉禅は、柩を背負い、魏の軍門まで歩く。この日をもって、三国時代は畢わった。その翌年、司馬昭は晋王の位を授かる。天下統一はまだ果たされないが、もうすぐその時がくる―正史に基づき、百五十年もの歴史を描いたかつてない三国志、最終巻。解説・湯川豊

 

司馬師は郭太后の同意を得て曹芳を廃位した。司馬師は次の皇帝に曹據を推薦したが、郭太后が難色を示し曹髦(そうぼう)を推したので、司馬師は妥協して曹髦が即位した。毌丘倹(かんきゅうけん)は司馬氏の専横に不満を抱き、文欽とともに南方で叛いた。傅嘏(ふか)の進言通り司馬師は弟の司馬昭に洛陽を任せて病身を押して自ら征伐に向かった。反乱軍は許昌に集結し、文欽は寿春から討って出ると、鄧艾は囮で司馬師の本隊が近くに到着していたのを知り、文欽は呉に逃げ、毌丘倹は逃げる最中に矢に射られて殺された。呉の孫峻は寿春に直行したが、先に諸葛誕の軍が到着していたので退去した。司馬師の遠征は成功し反乱を鎮圧した。が司馬師は重態に陥り、謀臣の鍾会(しょうかい)、傅嘏、弟の司馬昭を呼び、後のことは司馬昭に託して亡くなった。司馬昭は洛水の南まで戻ってきたところで駐屯すると、朝廷(郭太后)は司馬昭を恐れて大将軍に任じた。呉では孫峻の専横が進み、反孫峻派が暗殺計画を持つが、いずれも失敗した。蜀では姜維が毎年のように出師した。張翼が国力疲弊を理由に諫めても、姜維は無視して魏を攻めた。張翼姜維に十分な成果を得たので帰るべきだと提案したが、姜維は無視して追撃した。陳泰は姜維と戦うことを決意し、姜維を破った。敗退した姜維は物資を補充しながら越冬した。春になると再び攻めると予測した鄧艾の目論見通りに動いた姜維は再び破れた。自責の念に駆られた姜維諸葛亮を見習って自ら降格した。孫峻が領地強奪のために文欽、呂拠、滕胤を行かせたが、突然病で亡くなった。孫権の遺言を尊重するなら滕胤(とういん)が輔弼すべきだと呂拠は考えた。ところが孫綝(そんちん)が朝政を取り仕切ることになった。半日の差で滕胤は敗れ孫綝に軍配が上がった。が孫綝は独善的な男だったため、孫亮は自ら政治を行うと宣言した。魏の諸葛誕は、処刑された夏侯玄などと親しくしていたので、司馬昭から罰せられる恐れを感じていたが、寿春を守るために10万の兵を要請すると謀叛を疑われ、召還を命じられた。これにより謀叛が発覚したと思った諸葛誕は、呉に人質を出して協力を仰ぎ、寿春で反乱を起こす。司馬昭は王基の出師を許し、文欽も寿春の城に入った。寿春の城が包囲されたが、叛将の諸葛誕は城壁の上から城外を見降ろした。離反者が増えて全氏一門が城から出て魏に亡命した。城内の一万の兵が門を開いて魏に降伏した。司馬昭の度量は大きい。諸葛誕は文欽を殺した。文欽が殺されたと知った文欽の子文俶は諸葛誕を殺そうとしたが、誰もが降伏する事ばかり考えて、文俶に従う者は誰もいなかった。文俶は司馬昭に降伏を申し出た。司馬昭はこれを受け入れた。諸葛誕は、曹髦が司馬昭に帝位を禅譲することは受け入れることができなかったので、最後まで抵抗して城から出て討死した。呉の損害の大きさは計り知れなかった。戦いを途中で戦を投げ出して勝手に帰り、大敗北を喫した孫綝は、孫亮に報告もせずに私邸に籠った。孫亮は孫綝を訴捕する計画を立てたが、直前に漏れたために孫綝は孫亮廃帝し、孫権の子の孫休を立てた。孫休は孫権の6番目の子だった。孫休は孫綝に怯えた振りを続けて隙を見せ、張布をして孫綝を殺害させた。呉ではかろうじて威権が皇帝に戻った。魏では司馬昭は相国に引き上げられ、晋公に封ぜられた。後の天下王朝名、晋、はこれに起因する。若い曹髦は司馬昭と郭太后を排除しようと、皇太后府を襲撃し、司馬昭を襲ったが、賈充の迎撃に遭い、討ち死にした。20歳だった。司馬昭曹操の孫曹奐を指名した。陳泰は賈充が皇帝を害したことを非難し、賈充の死刑を求めた。司馬昭は腹心の賈充を庇い、実行犯の成済とその家族を処刑した。だが非難する者はおらず誰も騒がなかった。蜀では宦官の黄皓が政治の実権を握っていた。鍾会は今なら蜀を取れると司馬昭に献言し、姜維が剣閣に籠ったため、鍾会は足止めを食った。その隙に鄧艾が横道を発見した。諸葛亮の子諸葛瞻は防戦したが討ち取られ、劉禅は降伏した。降伏は受け入れられ、三国時代は終わった。成都に入った鄧艾(とうがい)は蜀を制圧し、呉をも鎮定しようとした。姜維は独立志向の鍾会を利用して蜀の復活を果たそうと企てた。鍾会は鄧艾の専横を密告し、鄧艾は司馬昭に謀反の疑いをかけられた。鍾会の叛乱を察知した司馬昭は、自ら乗り込み、姜維鍾会、鄧艾を斬り殺した。降伏した劉禅は安楽公に封ぜられた。郭太后は死去し、後ろ盾を失った皇帝の曹奐は孤立した。司馬昭は晋王となり、呉では皇帝の孫休が死去し、子が幼かったので孫和の子の孫晧が即位した。孫晧は極悪の人で後に晋に降伏した。司馬昭は長子炎を太子に定めた。司馬昭は、天下統一は自分でなく子の炎であると予感していた。55歳で薨じた。史書には文帝と記された。晋王を襲いだ司馬炎が天子の曹奐から禅譲を享けたのは265年12月である。