昭和55年12月2日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷
①郷里は利根の河畔―小学校を7度転校
②中学時代―往復20キロを徒歩通学
③“伝統の関西”にあこがれ神戸高商へ
④伊藤忠商事へ―面接試験は飲みながら
⑤過分な丘陵―模範生返上して花街通い
⑥関東大震災直前に横浜から神戸へ転勤
⑦スカウトされて丸紅商店の絹糸部主任に
⑧三社合併―主導権は伊藤忠に握られる
⑨終戦で二分割―丸紅の社長に就任する
⑩「正・新・和」を三本柱に新生丸紅の発足
⑪高島屋飯田を合併し総合商社第3位に
⑫大商会頭に就任―大阪の国際化に尽力
・明治30年1月9日茨城県生まれ。小学6年間に7度も転校した。中学が往復5時間かけて通った。一浪して神戸高商に入学した。卒業後、伊藤忠商事に入社し、横浜、神戸勤めの後、丸紅商店にスカウトされた。丸紅商店は伊藤忠グループの企業で、輸出絹織物を手掛けることになると、経験者の私に白羽の矢が立った。丸紅と伊藤忠と岸本商店が合併し、新会社「三興」が発足した。戦後、旧伊藤忠系と旧丸紅系・旧大同貿易系に2社分割した。新生丸紅がスタートし、「正しくあれ」「新しくあれ」「和」の3つを舎の基本方針とした。丸紅と高島屋飯田と合併し、日立製作所、昭和電工などとの関係を深め、富士銀行グループ企業とも緊密さを増した。昭和39年に社長を桧山広君に譲り渡した。社長になり14年半。売上高は年156億円から1兆円を超えるまでに膨らんだ。繊維オンリーから総合化への歴史といえた。不二越再建に尽力し、大阪商工会議所の会頭に就任した。(昭和48年11月2日死去)