藤田嗣治「異邦人」の生涯 近藤史人

第34回大矢壮一ノンフィクション賞受賞作。2006年1月15日第1刷発行
2018年10月15日第15刷発行

ピカソ、モディリアニ、マチス・・・世界中の画家が集まる1920年代のパリ。その中心には日本人・藤田嗣治の姿があった。作品は喝采を浴び、時代の寵児となるフジタ。だが、日本での評価は異なっていた。世界と日本の間で、歴史の荒波の中で苦悩する巨匠の真実。

藤田の随筆集「地を泳ぐ」
〈栖鳳氏は天才だなんて、批評家、特に美術雑誌の批評家はしたり顔で言っているが、しかし栖鳳氏には天才的な匂いなんか爪の垢ほどもないのだ。栖鳳氏の作品にはゴーギャンセザンヌのように、大自然と四つになって取っ組み合ったような強い魅力がない。ゴーギャンとかいった画家は、逆境にあえぎ苦しみ抜いて血のにじむような精進を続けた人たちである。フランスの因習を打破し、伝統を無視し、執拗に自然と取り組んだ事によって、立派に自分を築き上げているのには驚嘆すべきである。日本の画家では北斎などがその作品や清貧なその生涯に対して、現代の日本画家などより遥かに尊敬できる。北斎の版画や肉筆画を見ると、むしろ洋画畑の人かと思われるほど日本画家からぬ作品だ。ところが、竹内栖鳳氏は元来が腕達者の画家でその万人向けの作品は早くから世間に認められ追い風を帆にはらんで進むといったように、すこぶる恵まれた春風駘蕩たる環境に育ってきたためその作品もどことなく甘さが漂っている。けだし栖鳳氏の甘味ある作風には、大衆はいい心地に酔わされてしまうらしい〉

(30歳の頃の)藤田はまさに命がけで絵にうちこんだ。
〈勉強時間は普通14時間、仕事に励む際には18時間くらい筆を持つ日が続いた。朝10時から午後1時まで描く。1時から2時の間に昼食し、15分間昼寝し更に2時から7時まで描く。9時までの間に夕食をとって休み更に翌朝の4時、時には5時まで描いてようやく寝につき、10時まで5時間睡眠するという過程であった〉(腕一本)

藤田は(村山密に)ルーブルで出来る限りたくさんの絵をみることの必要性を語り、大家の真似を決してしてはいけないなどと諭してくれた。ルーブルでの絵の見方については、自分の方法を説明しながら、手ならば手、目ならば目だけに的をしぼり、それだけを見て歩くようアドバイスされた。

個展にピカソが訪れ、3時間以上にもわたって藤田の絵の前に立ち尽くしていたのである。藤田は、「夏堀用手記」の中でその驚きをこう語っている。
「こうやって長い間私の画を熱視してたピカソは決して私の画の材料などという枝葉の問題ではなく、この画が何年の後、何十年の後、何う変わって行くか、その先を考えて得るものがあれば頂戴しようというやり方で私も驚いた。先手を考えてやってるのだった〉

晩年のルノアール(p93から94)