オルテガが若い時期の代表作の一つが『ドン・キホーテをめぐる省察』(1914年)です。この中に、「私は、私と私の環境である」という有名な言葉が出てきます。
自分が意味ある存在として位置づけられる拠り所のような場所、つまり「トポス」(ギリシャ語で「場所」の意)なき人間のことです。自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのかの区別もつかないような、個性を失って群衆化した大量の人たち。それをオルテガは「大衆」と呼びました。だから、単なる「庶民」とは大きく異なります。むしろ彼は「庶民の世界」を高く評価していました。決して裕福ではなく、学があるわけではない、けれどトポスをもった人ーたとえば、親から継いだ商売を何十年も真面目に営んで、それを後継者にしっかりと手渡したような人は、オルテガにとって「立派な人」なのだと思います。
それぞれの人間がもつ感性や個性は、規律を重視する集団にとっては邪魔なものでしかなく、そういうものを奪い去っていくことが、実は近代教育の重要な命題だった。それも、結果としてたまたまそうなったのではなく、意識して個性のない人間をつくろうとしてきたのだ、とフーコーは言っているのです。
さらに、オルテガが面白いのは、この大衆の原型とは、いわゆる庶民ではなく「大学の中にいる専門家である」と言い出すところです。・・つまり、知識をもたない、いわゆる庶民階級ではなく、むしろ「専門のことしか知らない」ために複雑な思考ができなくなった人間、つまり専門家が社会をコントロールしようとすることによって、世の中に混乱が起きているのだというのです。
「思想とは、真理にたいする王手である」
「支配するとは、拳(で撲ること)より、むしろ尻(で座ること)の問題である」
民主主義の主体はいま生きている人間。つまり「生者」。それに対して、立憲主義の主体は「死者」なのです。
「遺影」の存在ー死者からのまなざし
『東京物語』の主人公は原節子が演ずる「紀子」でも笠智衆が演ずる「周吉」でもなく「遺影」だと思っています。
マスメディアの発達が民主主義を破壊する
マスメディアが発達していくと人々は中間領域に参加しなくなっていく、そうなったとき多数者の専制が生まれデモクラシーは破たんに向かう。
西部邁『大衆への反逆』
パットナム『孤独なボウリング』
彼が提示するのは「ボンディング(結束)」と「ブリッジング(橋渡し)」という概念です。
なかなか100de名著シリーズの中でも面白い内容です。