救出 日本・トルコ友情のドラマ 木暮正夫


2003 年 10 月 25 日初版発行  2004 年 6 月 20 日第 3 刷
1985 年 3 月、イラン・イラク戦争の余波で、イラン・テヘランに居住していた日本人 500人余がそのままとどまっていれば命の保証がない状況の中で、いますぐ出国・帰国しなければならない時に、日本の外務省は及び腰で救出のために手を差し伸べなかった。その時、トルコだけが日本人を救出するため、旅客機を用意し、具体的に手を差し伸べて動いてくれた。
その背景に何があるのか。実は、100 年前の紀伊大島の遭難事故の際、トルコの大使節団を同大島の村民たちが尽力した史実があった。この話は知ってはいたが、これほど詳細なドキュメンタリーは初めて読んだ。
「樫野崎灯台」。照明灯の光源を回転させる「閃光式」を採用した、石造りの洋式灯台は国内最初。40 メートルもの断崖上に設置。1890 年(明治 23 年)9 月、ウルトゥールル号が遭難。500 名を超える犠牲者を出す中(公式には 609 名、研究上は 607 名が有力)、69 人が島に息も絶え絶え辿り着く。言葉は通じないが、村あげて救出活動に当たる。そして遺体収容作業も。大島村の人たちは 10 年ごとに殉難者を悼む式典を開催。村が串本町と合併した後は 5 年ごとに。しかしトルコでは、「トルコと日本は、エルトゥールル号のときから友好の絆で結ばれてきました。私たちは、あの時、日本の人たちから受けた真心を、皆胸に刻んでいます。トルコの子どもたちは、そのことを学校で教えれられています」。それ故に、イラン・イラク戦争で先の軌跡が起きたのだ。
1975 年には串本町とメルシン市が姉妹都市に。当時の野村豊元大使に取材した著者は「ビルセル大使の協力のおかげにつきる。本当に感謝しきれない。彼とはいまも親しくしています」と。

 

トルコの親日は有名だが、先人たちのこういったトルコの人たちへの貢献があればこそだということを改めて痛感する。