2018年7月20日第1刷発行
1900年、岐阜県生まれの外交官。医師にさせたかった父に反対されて早稲田大学に通っていたので、学費や生活費をアルバイトをしながら苦学していた最中、アルバイト先の塾も、英語の辞書の校正のアルバイトをしていた出版社も倒産し、絶望しかけていたところに、外務省留学生採用試験の新聞広告が目にとまり、5週間後に控えた試験を突破するために猛勉強。英語以外の、法学、国際法、経済学、世界史は勉強してこなかったのに、あと5週間で4回繰り返し勉強して、見事に合格する。ロシア語選択で採用され、満州に赴任。今度は4カ月でロシア語で日常会話ができるまでに上達するくらい勉強する。フィンランド勤務を経て、1939年、リトアニアに着任。その頃、ヨーロッパではナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が激しくなり、翌夏、日本経由で安全な国に逃れようとするユダヤ人が領事館に大勢詰めかける。悩んだ末、政府の方針に反して日本通過ビザを発給し、領事館を閉鎖し公印を次の赴任地に送ってしまった後も、渡航許可証なら公印なしで作成できるため、ホテルで書き続けた。そして日本にギリギリのタイミングで通過ビザを発行した旨の手紙を送り、『今後は規則を守ってビザを出すように重ねて注意する』と外務省から返事をもらい、これで今までの通過ビザを認めさせた。ベルリンにつくと、チェコのプラハ着任を命じられ、プラハでも100人近くのビザを発行。その結果、6000人あまりのユダヤ人の命を救った。終戦後、1年8カ月経過してようやく帰国できた千畝は、外務省から多くの大使館・領事館が閉鎖となり人減らしをする必要があるので退職を求められ、退職する。その後、大金をせしめてビザ発給の悪意の噂を流されたりするなかで、民間の仕事に精を出す。1968年6月、東京のイスラエル大使館から連絡を受け、あの時助けたユダヤ人と奇跡の再開を果たす。ちうねではなく、センポと名乗っていたため、外務省に問合せをしても登録されていないという回答ばかりだったらしく、ようやく杉原千畝を探し当てたのだった。千畝の4男はイスラエルのヘブライ大学に国費留学生として招かれ、翌年9月には千畝本人がイスラエルに招かれ、宗教大臣の手にも通過ビザが。あの時助け出した一人が大臣になっていた。『ヤド・パシェム』には「記憶せよ、忘れるなかれ」という言葉がある。そして『諸国民の中の正義の人賞』を贈ることを考えていると告げる。1984年この賞が実際に贈られ、授章式典は1985年1月18日、85歳になった千畝は体が弱っていて欠席し、代わりに妻幸子と長男弘樹が出席。翌月31日、86歳で永眠。日本政府が千畝の功績を公式に認めたのは1992年。総理大臣と外務大臣が国会で称える発言をする。現在残っているリストでは2139人の名前が記されているが、研究によれば6000人を超えると言われている。そして子供や孫をいれれば20万人にもなるそうだ。