上杉鷹山と細井平洲 人心をつかむリーダーの条件 童門冬二

1997年9月15日 第1版第1刷

 

裏表紙に「見事な復興なった米沢の地で平洲と鷹山は再会をはたした。二人とも無言で頭を下げ、目には涙があふれている。もはや師弟の間に言葉はいらなかった。-崩壊寸前の米沢藩をたて直した藩主・上杉鷹山。その苦しい藩政改革を陰で支えたのは師・細井平洲の教えだった。かの吉田松陰西郷隆盛をも感動させたという細井平洲の思想とは?師弟の温かい触れ合いを通してその真髄にせまる。」と。

平洲の『櫻鳴館遺草』巻の二では、「節倹の政」を実際にどう行うか、心構えが説かれている。「君徳というのは、ただ一筋に下々の幸福を願う心であります。それには、やはり古代の聖賢の教えを勉強し、増長しがちな自分の性格を押えていくことが必要です。学問が大切です」

鷹山は改革の目標を「米沢に住む人々全員が、“忍びざるの心”という、他人への優しさ・温もり・思いやりを持つことだ」と定義した。そのためには“まちづくり”と“人づくり”を考えた。

最も壊しにくい心の壁を壊すのに、人間の社会には二つのタイプの人間で成立していることを忘れてはいけない。「知型人間」=「何のためにそういうことをするのか」を重視するタイプと「情型人間」=「何をやっているか以前に誰がやっているかという人間関係」に重きを置くタイプがある。モノサシが別々なので両者は相容れない。したがって反対者や対立者を真っ向からやっつけるのではなく時間をかけて柔軟に理解と協力を求めて根気強さを養う、という自己変革が心の壁を壊すのには必要だと説く。うーん、なるほど。

藩主が自ら贅肉を落とす行為をこれ見よがしに他にPRするような邪な心があってはならない。あくまでも、親の愛情という仁徳から生まれたものでなければならない。

表紙裏に「刀の柄に手をかけた吉田は講義中の細井平洲に忍び寄った。しかし平洲の後姿には微塵の隙もない。吉田はたじろいだ。胸の中で『(こいつめ、こいつめ)と思うが、どうしても斬りかかれない。この時吉田は悟った。『軟弱だと思っていた文の人間に、武の俺が斬りかかれない。やはり文と武は別ではないのだ。この先生は文だけで生きているようだが、実は文を極めることによって武の精神も極めている。だから隙がない。いや、俺が間違っていたかもしれない』

実学の平洲の弟子である上杉鷹山が、平洲の教え通りに米沢藩を改革した、その背景にあった平洲の教えを具体的に説明し、その通りに鷹山が実行したという感動的な師弟一体をみごとな筆致で分かり易く語ってくれている一冊でした。