萩原朔太郎詩集

1975年10月10日初版第1刷 1984年7月1日第6刷

 

詩集〈月に吠える〉全篇

詩集〈青猫〉から

詩集〈蝶を夢む〉から

〈青猫〉以後(「萩原朔太郎詩集」)から

詩集〈純情小曲集〉から

詩集〈氷島〉全篇

詩論・小品

研究 詩における自然観の問題 飯島耕一

解説 萩原朔太郎論 岡井隆

 

〈月に吠える〉

 北原白秋「従兄 萩原栄次氏に捧ぐ」の「序」に始まり、次に萩原朔太郎の「序」に続く。

この「序」を読んで、詩人萩原朔太郎のことを今まで全く理解してこなかった己を恥じた。

「 詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない・・詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

  詩とは感情の神経を摑んだものである。生きて働く心理学である。

  すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひという・・

  詩の表現は素撲なれ、詩のにほひは芳純でありたい・・

  人は一人一人では、いつも永久に、恐ろしい孤独である・・・

  とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない・・・

  私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもったものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない・・・

  月に吠える犬は、自の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。

私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追って来ないやうに。」

 

「詩集例言」の中で、「月に吠える」の装幀を担当した田中恭吉氏のことに触れた「故田中恭吉氏の芸術に就いて」は衝撃的だった。

 こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

田中恭吉氏の芸術は「異常な性慾のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯であるとする萩原朔太郎の指摘は恭吉氏の装丁を見てドキッとさせられた。

 

さて、萩原朔太郎の多くの詩作の中で、私は、「冬」という詩が、好きだ。

 つみとがのしるし天にあらはれ、

 ふりつむ雪のうへにあらはれ、

 木木の梢にかがやきいで、

 ま冬をこえて光るがに、

 おかせる罪のしるしよも現はれぬ。

 みよや眠れる、

 くらき土壌にいきものは、

 懺悔の家をぞ建てそめし。

 

「強い腕に抱かる」の一節も良い。

 ・・

よい子よ

恐れるな なにものをも恐れなさるな

あなたは健康で幸福だ

なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはお

 びえてはなりません

ただ遠方をみつめなさい

めばたきをしなさるな

めばたりをするならば あなたの弱々しい心は鳥のやう

 に飛んで行ってしまふのだ

いつもしっかりと私のそばによりそって

私のこの健康な心臓を

このうつくしい手を

この胸を この腕を

そうしてこの精悍の乳房をしっかりと。