金子光晴詩集 茨木のり子編

昭和42年4月15日初版発行 昭和53年1月20日12版発行

 

編者解説によると、ポール・エリュアールの詩の一節である「年をとる それは青春を 歳月のなかで組織することだ(大岡信訳)」を引用して、「金子さんの長い詩業を思う時、この美しい詩句が常にひらめく。青春時代の狂躁性を持った血のさわぎ、制御できない自我の分裂、放蕩、矛盾葛藤をもてあましつつ粗略に扱うことなく、弱さをもむしろ大切にしつつ、実にゆったりと、しかしたゆむことなく、大きなスケールで青春を組織し続けている人だからである」とする。「怠けもののようにみえて、その実まったく息の長い勉強家であり、衰えることを知らない視力の持主である。中学生時代に読んだ漢籍、江戸文学、青春時代に熟読したニーチェホイットマン、アルティバーシェフ、スティルネル、クロポトキン等の読書から、多くの影響と滋養分を見事に奪い取っているし、かの骨董商からは日本美術の知識をちゃんと吸収していたことは『紋』『寂しさの歌』などに実証されていると思う。プロレタリア詩全盛の頃は、プロレタリア詩人以上にマルクス主義を徹底的に読んでいるし、戦時中は敵を知るために宣長、篤胤、信淵などの日本思想の研究を怠っていない」とし、思想詩人という名を冠する詩人と評価しているようだ。反戦詩を書き続け、戦後の若い詩人たちに多大な影響を与えたが、抵抗詩人と言う賞讃をむしろ苦々しく感じ新たな脱皮を志し、「人間の本質についての究明」「何処より来たり何処へ行くか」を大きなテーマとしたのではないかと問題提起する。

 

一九一七年頃の詩

 

反対

 

僕は、少年の頃

学校に反対だった。

僕は、いままた

働くことに反対だ。

 

僕は第一、健康とか

正義とかが大嫌いなのだ。

健康で、正しいほど

人間を無情にするものはない。

 

むろん、やまと魂は反対だ。

義理人情もへどがでる。

いつの政府にも反対であり

文壇画壇にも尻をむけている。

 

ないしに生れてきたと問われれば

躊躇なく答えよう、反対しにと。

僕は、東にいるときは

西にゆきたいとおもい

 

きものは左前、靴は左右。

袴はうしろ前、馬は尻をむいて乗る。

人のいがやるものこそ、僕の好物。

とりわけ嫌いは、気の揃うということだ。

 

僕は信じる。反対こそ人生で

唯一の立派なことだと、

反対こそ、生きていることだ。

反対こそ、じぶんをつかんでることだ。