二度読んだ本を三度読む 柳広司

2019年4月19日第1刷発行

 

帯封「2度読んだ本は少ないが、三度読んだ本は意外に多い サマセット・モーム 夏目漱石 小泉八雲 コナン・ドイル ジョナサン・スウィフト 中島敦 フョードル・ドフトエスキー 谷崎潤一郎 井上ひさし サン=テグジュペリ ジョージ・オーウェル 太宰治 司馬遼太郎 山際淳司 プラトン 灰谷健次郎 W・シェイクスピア M・オンダーチェ」「二度読んだ本は少ないが、三度読んだ本は意外に多い。奇を衒っているわけではない。本を二度読むのは、それが自分にとって二度読むに値する本だと思ったからだ。世の中にはたくさんの本が溢れていて、…二度読むに値する本に出会う確率は極めて低い。だから、二度読んだ本は必ず三度読む。理屈としては、合っているはずだ。(「あとがき」より)」

表紙裏「若い頃に繰り返し読んだ名作は、やはり、特別な作品だった!小説家が若い頃に読んだ本を改めて読み直すと、本は自分自身を写し出し、はるか遠くの世界と自分とをつないでくれていたことに気付く。若い人はもちろん、全ての人への読書案内。『図書』好評連載。」

 

『月と六ペンス』サマセット・モーム

  皮肉とユーモアは小説の必要条件。ただし、何度も読んでもらう小説となるためには、それだけでは足りない。愛。崇高さ。不思議な感銘。何と呼ぶかは勝手だが、皮肉とユーモア、プラス“何か”が必要―。

 

『それから』夏目漱石

 『こころ』が目の前の「私」に囁きかける小説だとすれば、『それから』は語りかける相手をもっと遠くに設定している。それが「不自然さ」「作り物」「失敗作」の評価につながっている。

 

『怪談』小泉八雲

 近代小説の形式と話し言葉という矛盾する二つの方向性がバランスよく取り入れられたことで、『怪談』は黙読に適した近代小説でありながら、就学以前の幼児への「読み聞かせ」(音読)にも向いた作品となった。

 

シャーロック・ホームズの冒険コナン・ドイル

 一見奇怪な事件は、理性を正しく働かせることによって理解可能な、平明な事象に還元される。ロンドンに蝟集する見知らぬ者たちの奇怪な行動も、推理(理性)を用いれば理解可能なものとなる。ホームズ・シリーズの人気の秘密はこの点にある。

 

ガリヴァー旅行記ジョナサン・スウィフト

 冒険譚・漂流記は本来最後は必ず元の場所に帰ってくるのがお約束。だが『ガリヴァー旅行記』は読者は最後に見知らぬ場所に置き去りにされる。旅をした結果、別の人間に生まれ変わった。読者もまた己の存在のあり方を問われている。

 

山月記中島敦

 音読した際の音の響きが面白い。

 

カラマーゾフの兄弟フョードル・ドストエフスキー

 「長さ」によって惹きつけられた作品。犯罪小説として読んでも面白い。別の読み方も可能、宗教小説として。登場人物たちは揃いも揃って途方もないエネルギーの持ち主だ。未完の小説である。未来に向かって常に開かれている。

 

『細雨』谷崎潤一郎

 タニザキは世界でもっともよく知られた日本人作家の名前だった。たぶん、タニザキ、カワバタ、ミシマの順だ。『細雪』を今回読み返して感じたのは、作品の横糸となる物語の意外なほどの起伏の激しさだ。谷崎の文章は、曖昧さを拝し、目の前の対象を正確に捉えて描写するその筆さばきは、ある意味“日日本語的”とさえ言える。

 

『紙屋町さくらホテル』井上ひさし

 ヒロシマを扱った作品。“むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに”の言葉どおりヒロシマを扱いながら、歌と笑いと優しさ、そして明るい光があふれている。井上ひさしは、ヒロシマナガサキを書くのはあの日への贖罪なのだと言っている。

 

『夜間飛行』サン=テグジュペリ

 黎明期の飛行機の優れたパイロットでもあったサン=テグジュペリは、南米を舞台に夜間郵便飛行の航路開拓に命懸けで挑む男たちの物語として、荒れ狂う嵐の雲の上に忽然と現れた不思議な世界、冒険者サン=テグジュペリ”にしかたどり着けなかった場所の一つとして描いている。

 

動物農場ジョージ・オーウェル

 二匹のぶた(スノーボールとナポレオン)がトロツキースターリンの似絵であることはある意味常識。『動物農場』は反ソ連・反共産主義の旗印として「聖書の次」といわれるほどの膨大な部数が刷られることに。政治の堕落は言葉の堕落と不可分と主張するオーウェルの『動物農場』は自分たちの物語としてもう一度読み返す時期に来ている。

 

『ろまん燈籠』太宰治

 五人の兄妹が共同で一つの「お話」を順番に書き継いでいくーというだけの小説。「ホンモノなんてない。あるのはニセモノの輝きだけだ」前者の前提で小説を書きはじめた太宰はストレートな言葉で『人間失格』を書いた。『ろまん燈籠』は後者を目指している。

 

竜馬がゆく司馬遼太郎

 竜馬の青春を書いた小説。同時に、小説家・司馬遼太郎自身にとっての青春の書だった。

 

スローカーブを、もう一球』山際淳司

 山際淳司はスポーツを個人の物語に還元する。ゲームを単なる個々のプレイの集積や試合の勝敗ではなく、プレーヤーの内面のドラマとして描き出す。綿密な取材で拾い上げた膨大な競技情報に加え、選手自身や関係者の言葉を用いて物語を再構築する。その結果、彼が書く文章は“物語の外にいる者”にも楽しめるものとなった。

 

ソクラテスの弁明』プラトン

 たった一人で言葉をもって国家に異議を申し立て、殺された人物が比類なき英雄として人類史に刻みつけられることになった。小説はその起源において一つの可能性を示した。

 

兎の眼灰谷健次郎

 鉄三のことはハエの話からはじまる。で始まる『兎の眼』。鉄三の祖父・パクじいさんは人間は悪魔になれる、そのことを子どものうちに学ばなければいけない。それが教育の本質だ。「原爆の図」にしても『はだしのゲン』にしても戦争の現実はこんなものではない。

 

『キング・リア』W・シェイクスピア

 何にでも手を出す安手の流行作家と蔑まれ続けたシェイクスピアが、頼るものが何もないところで一から作品を書く勇気が大学出のインテリどもにあるのかと渾身の挑戦状をたたきつけた作品。そのためにあえて一般受けする得意の決め台詞の多用を避け、観客が容易に納得できる分かり易い物語にしなかった。

 

『イギリス人の患者』M・オンダーチェ

 「イギリス人の患者」とは、即ち「文明そのもの」の謂いである。オンダーチェには小説家志望者を惹きつけるある種の素人臭さがある。わけがわからないもの。はみ出すもの。過剰さ。熱。非効率性。ある種の素人臭さ。この作品を繰り返し読むのは、たぶん、そうしたものを求めてだ。