乱読のセレンディピティ 思いがけないことを発見するための読書術 外山滋比古

「184万部!東大・京大で5年連続販売冊数1位『思考の整理学』読書版!『知の巨人』が、思考を養い、人生を変える読み方を伝授!<セレンディピティ>とは、探しているものではない、思いがけないことを発見する能力」「乱読の価値とは 一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのでは取り逃がすものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、いまは違う。本はあふれるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。本が読まれなくなった、本ばなれがすすんでいるといわれる近年、乱読のよさに気づくこと時代が、セレンディピティであると言ってもよい。積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。それが、この本の考えである。」

 

読者の存在

 文学作品が成立するには、作者、作品、それを読む読者が必要。読者を無視するのは不当。そんなことに疑問を抱き「近代読者論」(1963)にまとめた。1970年代になってドイツでおこった受容論も志向は一致している。ケンブリッジのリーヴス『小説と読者層』が目からウロコだった。

こういう視点があることを初めて知った。これを手掛かりにセレンディピティを働かそう。文学作品になぜ読者論が発展しないのか。読者論不在の文学。そこには哲学的な難問が潜んでいるような気がする。

 

3,4人の雑談、おしゃべりの効能を説く所も面白い。ヒュームがサロンをいくつもこしらえて論壇風発、考えやアイデアを喋りまくり、自分でも驚く着想が口から出ると、ポケットからメモを取り出してちょこちょこ書き留める。これを友人が「思考集」として世に出る。乱読とともにこの雑談も恐るべき威力、セレンディピティを発揮する、とあった。確かに自分の経験でもそんな気がする。最近はコロナでそういう機会がめっきり減ってしまったので、ぼちぼち再開させようと思う。