2012年8月31日第1版第1刷発行
帯封「考える力を養うための知的読書法とは! 書籍、雑誌、新聞、ネット・・・。情報が氾濫する現代社会をどう生きるか。血肉となる書物との付き合い方。わかりやすい新訳で読む古典の名著」「『読書する人は、自分で考える能力をしだいに失ってゆく』『多くの学者が読書して馬鹿になってしまった』そうならないために、何をどう読むべきなのか?」
第1部 ショウペンハウエルの生涯と哲学
カントのキーワードである「物自体」にかわるものとして、ショウペンハウエルは「生に対する盲目的意思」を提示した。仏教に影響を受け、ヘーゲルとの確執からベルリン大学で講義がなくなりヨーロッパ各国を旅行した。1848年のドイツ革命が失敗してヘーゲルを頂点とする観念論が崩れ始めるとショウペンハウエルの理論が再評価された。ニーチェ、フロイト、ベルグソンに影響を与えた。
第2部 [新訳]読書について
無知は富と結びつくことによってはじめて人間を堕落させる。
貧しい人は貧困と辛苦によって躾けられる。
読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうことである。
大量に、またほとんど一日じゅう読書する人は、自分で考える能力をしだいに失ってゆく。わたしたちが自分の思考への従事から離れて読書に移るとき、安堵感を得られるのはそのためである。読書中のわたしたちの頭の中は他人の思考の遊び場であるに過ぎない。
たくさん読書すればするほど、それだけ読んだ内容が精神に跡をとどめることが少なくなる。実に多くの学者がこの例に当てはまる。彼らは読書して馬鹿になってしまったのである。
反芻することによってのみ、人は読んだものを身につけることができる。
読んだ内容についてあとから再び思索することなく絶えず読書を続けると、根を下ろすことがなく、たいていは失われてしまう。摂取したもののうち、ほとんど50分の1も吸収されない。残りは蒸発や呼吸などによって排出されてしまう。
紙の上に書かれた思考とは、けっして砂の上の足あと以上のものではない。
作家の作品を読むことによって、その作家の特性まで身につけられるわけではない。けれどもわたしたちが同様の特性を既に素質として、つまり可能性として所持している場合には、読書することによって内部のその特性を呼び起こし、意識へと上がらせることができる。
もともと天分として本人に備わっていることが前提条件となる。それが、読書による人格形成によって作家になる唯一の方法である。
保健当局は目の健康のため、定められた最小限のサイズよりも小さい活字が使用されないよう監視して欲しい。
図書券の書架には、過ぎ去ったいくつもの時代の誤った見解をあらわした書物が並べられ保管されている。いまでは硬直して化石のような姿となって、せいぜい古生物学者のような文献学者に観察されるのみである。
書籍見本市の分厚いカタログを眺めて、十年後にはこれらすべての書物のうち一冊も生き残っていないであろうことを慮るとき、だれが涙せずにいられようか。
悪書は単に無益であるばかりでなく、じっさい有害でもある。著者・出版業者・批評家は強固に結託している。社交の場で話題とするために、いつもみなが同じもの、最新のものを読むように調教された。
三文文士・生活のために書く作家・著作濫造家たちによる、時代のよき趣味と真の教養に対する打撃は成功した。
わたしたち読書の側に関していえば、非読書術がきわめて重要である。
時期ごとに大半の読者の関心を引く書物を、それだけの理由で手に取ったりしないということに尽きる。
読書に費やすことのできる限られた時間をもっぱら。あらゆる時代と民族の偉大な、他の人間からはるかに傑出した精神の生み出した作品よ。評価のゆるがないこれらの作品だけが、真にわたしたちを育て、教え導いてくれる。
良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。人生は短く、時間と労力には限りがあるのだから。悪書は知性にとって毒である。
読書は印刷されたてのものばかり読みたがる。つとめて古典を読め。まぎれもない本物の古典を。
それに加えてさらに彼らには低俗な、個人的な意図もある。日々刊行される凡俗作家たちの駄文を読むために、もっとも高貴にして希有な精神の所産を読まずにおく読者の愚かさと本末転倒ぶりは信じ難いほどである。
本物の文学と、うわべだけの文学が存在する。本物は時代を超えて残る文学へと成長する。本物の文学は真摯に、静かに、そしてことのほかゆっくりとわが道を行く。うわべだけの文学は、あたふたと駆け抜けてゆく。
書物を買うのは良いことだ。ただしそれを読むための時間もいっしょに買えるならば。だがたいていは書物を購入することで、その内容までわがものにしたと勘違いする。
だれしも自分の関心にあうもの、すなわち自分の思想体系や目的に合致するものしかとどめておけない。
「反復は習得の母」といわれる。とにかく重要な書物はいずれも、間を置かずに二度読むべきである。二度目にはテーマを文脈に沿ってよりよく把握できるし、結末を知ることによってはじめて冒頭部分を正しく理解できる。
作品は著者の精神のエッセンスである。それゆえ高度な精神文化はわたしたちをしだいに、もはや人間にではなく、ほとんど書物にだけ楽しみを見出す境地へと導く。
古典古代の作家を読むことほど、精神を元気づけてくれるものはない。新鮮な岩清水によって心身爽快になるのと変わらない。
ドイツ語は古典語の完璧さを若干ながら有している。
思想は世界を動かす。それゆえ哲学は本来、正しく理解されれば最強の実利的な力ともなる。その[文学史]枢要部分は哲学史である。哲学史はその[文学史]根音バスであり、それを越えてもう一方の歴史にさえも影響を与える。
世界史においては、つねに半世紀単位が考察の対象になる。これに対し文学史においては、同じ半世紀がしばしば全然問題にされない。拙劣な失敗作は無視されるからである。わたしたちは学問・文学・芸術の時代精神がおよそ30年どとに破産宣告を受けるのを見る。毎度毎度の誤りが昂じた末、ついには自らの不条理の負荷に耐えられなくなって崩壊するのである。カントの全盛期につづいてすぐに別の時代がやってきた。納得させるかわりに感銘を与えたり、根本的かつ明晰であるかわりに、きらびやかで誇張的で、なかんずく晦渋であるように努めた。真理を探究するどころか、陰謀に熱心になった。
文学史上の少数のうまくいった出産は、陳列室に探す必要がない。彼らは不死の者として、永遠にはつらつとした青春の姿で、悠然と歩いている。
悲運の文学史には、諸国の国民がたいそう自慢する偉大な作家や芸術家たちに対して、その存命中にはどのようなひどい扱い方をしたか、記述して欲しい。それにもかかわらず、この人類の教育者が困難な戦がやりとげられ、不滅の月桂冠を授けられるまで、彼らの仕事に対する愛がいかに彼らを保ち続けたか、悲運の文学史には記して欲しい。
含蓄深い言葉が並んでいる。筆者の解説も面白い。紹介された書物はまだ読んでないものが結構あった。この「読書について」のアドバイスを頭の片隅に置きつつ、色々読んでみたいと思う。