漱石、シェイクスピアに挑む -物凄い、文学の手際 佐々木英昭

2022年10月26日第1刷発行

 

帯封「夏目漱石研究は、出つくした。そう断ずるのは、まだ早い。作家漱石に師はなかった。しかり、シェイクスピアを除いてはー。日本語・日本文学の枠を超え、シェイクスピアとの対峙を洗い出したときに見えてくる全く新しい漱石論。」「知的に爽快な、生きた文学論である。佐々木英昭の頭脳は漱石と共に動く。明治の英文学者はシェイクスピアをどう読み、作品にどう用いたか。分析の心理は鋭く、手際は鮮やか。平川祏弘(東京大学名誉教授)―『心理学』確立以前に漱石が苦労して到達した、言わば『下意識』を表現する手法の歴史性を解明している秀書。漱石がなぜ現代に至るまでこれほどの感動を呼ぶのかが分かる。ソートン不破直子(日本比較文学会会長・日本女子大学名誉教授)」

裏表紙「夏目漱石は、世界に先駆けた文学理論書『文学論』でシェイクスピア作品を最も多く引用しているばかりでなく、東京帝国大学での講義録やメモ・蔵書書き込みなどでもその『面白さ』を盛んに称讃・解析している。かつそこには、作家漱石がこの文豪の手法を自作に生かそうとした形跡も探知される。そもそも文学が『面白い』とはいかなる『事実』に由来するのか?ー本書では、漱石の『批評的鑑賞』の姿勢を継承し、≪シェイクスピアに向き合う漱石≫の全貌を明らかにしたその先に、『こころ』など主要作品の深層を浮上させる。」

 

はじめに

ある作品について「面白いです」と述べるのは「鑑賞的態度」だが、その「面白いといふ感じ」について「どうして」と突っ込まれた場合に、その根拠となる「事実」をもって「科学的」に応答するのが「批評的態度」だと漱石は説いている。そして、この二つの態度を葉の表裏一体とするのが「批評的態度」なのだ。

 

序章

漱石いわく、「ゴッドのネーチェア〔神の自然〕の域まで来ているトルストイも「まだ神になり切れない」でいるが、それは「作中の人物が人物自らの意志によって動かないで、作者の意志によって無理に動かされてゐる所がある」から。これがシェイクスピアの場合は「毫も『私』を出さない、作中の人物は人物自らの意志によって、神の摂理に従って動いてゐる」と。「則天去私」はこのような文学作品を指す標語として出てきたもので、自分もそのように「書きあらはしたいと、折に触れて云ってゐられた」と森田(草平)は確かな口調で伝えている(『夏目漱石』〔甲鳥書院、1942〕9頁)。

 

第1章 沙翁の筆端神あるを知れり -『リチャード三世』『ジュリアス・シーザー

第2章 俺たちはみんな悪党だ -『ハムレット』と仮対法

第3章 矛盾の多い男と女 -漱石の仮対法

第4章 悪魔は暗示する -『「オセロ」評釈』を読む

第5章 苦痛に釘付けのリアル -『オセロー』『行人』『マクベス

第6章 彽徊趣味・推移趣味と“△理論” -『草枕』の実験と『オセロー』

第7章 金剛石の様な女 -『虞美人草』と『アントニークレオパトラ

第8章 無意識な偽善家 -『三四郎』と平塚らひてう

第9章 因縁和合の層々累々 -ズーダーマンの女、禅する女

第10章 「F+f」の悲劇的リズム -『こころ(下)』の解剖

第11章 『こころ』のイアーゴは誰か -御嬢さんの幸福

 

漱石の作品は、シェイクスピアの作品とシンクロしている。シェイクスピア作品は最近読み直したので大体思い出せたが、漱石の作品を読んだのは昔だったため(最近になって一部読み返したものの忘れている作品が大半)、シンクロ度合いをきちんと理解できなかったのが残念。ところでズーダーマンってなんでしたっけ?