夏姫春秋 上 宮城谷昌光

1995年9月15日第1刷発行 2019年5月8日第44刷発行

 

裏表紙「中原の小国鄭は、超大国晋と楚の間で、絶えず翻弄されていた。鄭宮室の絶世の美少女夏姫は、兄の妖艶な恋人であったが、孤立を恐れた鄭公によって、陳の公族に嫁がされた。『力』が全てを制した争乱の世、妖しい美女夏姫を渇望した男たちは次々と…。壮大なスケールの中国ロマン、直木賞受賞作。全二巻。」

 

夏姫(かき)の生国は鄭である。父は蘭といい、彼女が生まれて2,3年日に鄭の君主(穆公)となったので、夏姫は鄭の公女である。母は姚子という。鄭は中国の中心に位置し、交通の要地であるため、貴人も庶民も人慣れし、いちはやく合理と進運が芽生えた。文化の先進国だが、倫理の面に腐臭が漂うのも早かった。十歳を過ぎた夏姫は兄の子夷(しい)によって女の性を鑿開(さくかい)された。たちまち彼女の艶美後宮の妃妾をしのぐ程になり、大人の目を驚かす程の女の魅力をその体貌から溢れさせ、春秋戦国時代の「妖花」だった。この兄弟の不倫をかぎつけたのが子宋であった。子栄は密事を働き、子家にも彼女の閨門を訪ねることを勧めた。鄭室には淫欲の血が流れている。蘭は鄭で君主として大過なく政治を行ったが、子が多かった。その一人子国の子が名宰相と呼ばれた子産である。夏姫の好ましくない艶聞が蘭の耳に入った。他国に噂が広がる前に嫁がせることを思い立ち、楚の命令で軍旅を催した鄭に訪れていた陳(国主は朔)の名門の少西氏に嫁がせることにした。少西氏は陳の公族のひとりである。他人はあざなの子夏の方を呼ぶので、「夏氏」と呼ばれる場合が多い。子夏の息子・御叔(ぎょしゅく)は新婦のいる鄭へ出発した。御叔は婚姻に当初消極的であったが、夏姫を見て一変した。そんな御叔を突き刺すように見ていたのが兄の子夷だった。初めて夏姫を見た子夏は妖美すぎると不快に思った。我が家の不幸はこの女から始まる予感がした。この頃、晋と楚に挟まれた鄭は楚からの離脱を考えており、陳も楚から外面だけ離れると楚に思わせようとしていた。鄭は子夷を楚に向わせ、子夷は人質同然に楚に留まることになる。陳へ嫁いだ夏姫は男児を産み、徴舒(ちょうじょ)と名付けられた。あざなは子南である。平穏な日々が長くは続かず夫の御叔が若くして死去した。鄭は楚と晋への二面外交を続けねばならぬ難しい外交を強いられていた。夏姫の兄・夷(霊公)が子家と子栄の凶刃に殺された。24歳の夏姫は11歳の徴舒を頼りにしていたが、収入源を断たれ、陳の儀行父からも軽んじられた。元服し徴舒は子南と呼ばれた。子南は母を困窮させた者に復讎を誓った。