他者が他者であること 宮城谷昌光

2015年5月10日第1刷発行

 

裏表紙「二十代の頃には、歴史小説を顧みることがなかった著者は、なぜそこへ目を向けるようになったのか。司馬遼太郎藤沢周平小林秀雄、古代中国、趣味とするカメラ、そして自著についての思い。大作『三国志』を完成させた歴史小説家の創作の裏に隠された、あらゆることに対する鋭い視点と、深い思考が見えるエッセイ集。解説・校條剛

 

橘逸勢(はやなり)は、嵯峨天皇弘法大師とともに三筆に挙げられる書の名手だが、彼の手によって書かれた文は何ひとつ残っていないのは不思議である。『嵯峨天皇橘逸勢』に収められている「伊都内親王願文」はみやびがあっても風流の浅瀬にのりあげていない。これは橘逸勢の書か。

 

・私は中国の歴史の原点を商周革命においた。商王朝は甲骨文をもち、周王朝は金文をもち、後世の創作という危うさから免れているからである。

 

呂不韋を扱った『奇貨居くべし』、『太公望』を書くに当たって、著者が何をどう悩みながら書いたのかということが分かります(確か、あとがきにこのことが軽く触れてあったような気がします)。士会を扱った『沙中の回廊』は年末か年明けに読みたい。

 

・「他者がみえることと歴史がみえることとは、たぶんおなじことであり、それによってはじめて自己がみえる」「人の存在に対する問いかけがなされて、小説といえる。そうでなければ物語である」含蓄が深い言葉のように思える。

 

・著者は、藤沢周平の「黒い縄」を名作だと断言し、人にそう言っていると綴っている。どんなストーリーだったか、過去の自らのブログを読んで、なかなか作り込みが上手だなと思った記憶がよみがえった。しかし、著者が言うように、冒頭に出て来る「木鋏と縫物とが、小説全体を象徴している」などとは、全く理解していないことに気がついた。

 

・「学びて時にこれを習う」という金谷治氏の訳と、「学んで時(ここ)に習う」という貝塚茂樹氏の読み方と、どちらが正しいのか。論語一つ取っても意味不明な語句がいまだにあり、中国の古代は謎と魅力に満ちている。

 

鋭い感性と、これを言葉に紡ぎ出す知力。その裏付けとなる半端ない学力。さらにカメラという単なる素人趣味とは到底思えない打ちこみ方。これ一冊で、著者の多才ぶりは十分堪能できる。