フランス語盛衰記 私の履歴書 河盛好蔵

1991年8月22日1刷

 

私の履歴書

明治35年10月4日堺市で次男として生まれた。河盛という姓は堺にしかない名前である。以前は河内屋と言った。堺中学卒業後、三高に入学した。フランス語の先生は松井知時先生と折竹錫先生だった。折竹先生は仏語学の創始者で、松井先生は唯一の仏和小辞典の著者だった。モーパッサンなどを輪読したりした。「模範仏和大辞典」の刊行は日本の仏語研究史上、重大な出来事だった。この刊行でどんな難しいフランスの本でも読めると欣喜雀躍した。辰野隆先生の「信天翁(あほうどり)の眼玉」という仏文学についての随想集は学生たちに熱狂的な歓迎を受けた。三高卒業後、東大に入るが、京都に旅行中に関東大震災が起き、京大仏文科に転学した。これがその後の人生行路に重大な結果をもたらした。落合太郎先生の学恩は計り知れない。主任教授は太宰施門先生だった。京大卒業後は関西大学に就職し、フランス・ブームの時代が到来。共訳した「キューリー夫人伝」はベストセラーになった。立教大学に移った。辰野先生の声掛けで始めた日本出版会での仕事に悪戦苦闘している最中、和辻哲郎先生の下で助教授を勤めていた金子武蔵君から海軍大学校の仕事をするようになった。戦後、東京教育大学の文学部にフランス文学科を創設することを依頼され、定年で辞めた後は、共立女子大学文芸学部に仏文学科を作る際に女性にふさわしい仏文コースを作った。戦後はジャーナリストとして大いに働いた。

 

『明るい風』より

・昭和33年彌生書房刊