2005年11月15日1版1刷
・第1部 明治のベンチャー企業
島津家のルーツは井上惣兵衛である。土地検分の際に活躍した。10代目利作が京に上り島津清兵衛と名乗る。島津製作所を興した初代島津源蔵は清兵衛の次男である。遷都の際、京都府にハイテク基地、舎密(せいみ)局という殖産興業の学校兼工場が源蔵の店から至近距離に出来、製造は自由に出入りし、西洋鍛冶屋と呼ばれるようになった。二代目源蔵は日本のエジソンと讃えられた天才で、15歳で図面だけを頼りに感応起電機をつくった。X線発見の翌年にはX線写真の撮影に成功した。生涯で178件の発明考案をしている。医療機器、質量分析装置、航空機部品が島津製作所の主力分野となっていくが創業記念資料館ではそれらが俯瞰できる。島津はビッグチャンスを事業化せず高校や大学に納入した。商売下手である。
昭和10年1月25日前橋生まれ。中学では野球部に入り都立青山高校で硬式野球部に入った。成績はクラスで3番だった。慶応文学部に進んだ私は慶応を未だに愛してやまない。2005年OB代表で卒業式で祝辞を述べた。大きな夢を2つ持ってほしい。1つは蓋然性ある夢を。もう一つは叶うことは不可能かもしれない夢を、と。卒業後、愛国者の父の勧めで防衛庁に入った。日本航空機製造という会社を薦められ、防衛庁を止めて半年後に入社した。国産初の中型旅客機YS―11は私の趣味である。累積赤字の批判にさらされ製造中止のやむなきに至ったが、182機製造し75台を輸出した。新しい日の丸飛行機が待たれる。製造中止後、民間輸送機開発協会に出向した。ボーイング767の機体、装備、部品の開発や供給に日本のメーカーがどこまで参画できるかが焦点だった。島津の事業部長で後に七代目社長となる西八條實さんから誘われ、42歳で新天地に飛び込んだ。乳がんで最愛の妻を55歳で亡くした。入社して20年余で社長就任の打診を受けた。深刻な老舗病に改革を決意した。創業以来初めての103億円の経常赤字を発表した直後、Vターン公約で全社一丸となった矢先に田中耕一君のノーベル賞受賞で社内はわきたった。1年で黒字Vターン公約を果たし、後継の社長に服部重彦さんを指名した。
・ドキュメントV字回復
ウルトラCはなく、集中と選択で、ガリバーとは戦わず、計画5%・実行95%を合言葉に、変革の主体は一人一人という意識が浸透しつつある。1年のV字回復だけが改革の目的ではなく、未来に向けた朝鮮は永続的である。