2002年9月20日第1刷
・昭和7年6月12日栃木県生まれ。今市高校を2年で中退し上京。雑司が谷の東洋音楽学校で茨木弁の高野公男と出会い、意気投合した。流しの仕事を続け、新宿のキャバレー「サクラメント」に出演していると、キングレコードの専属作詞家がいて文芸部長を紹介されたのが転機となった。高野と一緒に音羽の会社に出向き、作曲の努力を始めた。三橋美智也の「ご機嫌さんよ達者かね」の詩を高野が書き、私が作曲し三橋さんが歌った共作がヒットした。ヒット曲を次々書き、陽の当たる場所に手が届きそうになった時、悪酔いも祟って出入り禁止となってしまう。高野は『新進作曲家・船村徹と東京楽団』をつくり、楽団の演出のマネジメントをやり、私が音楽監督をやると言い出した。高野は幼なじみの興行師の仁平陸さんと組んでみたが楽団員と大喧嘩して失敗に終わった。キングレコードからかつての『泣けたっけ』を「別れの一本杉」に題名が変わり、高野と一緒にレコーディングに臨んだ。が数日後高野が結核で入院し音楽の道を諦めることにした。記録的ヒットを記録し専属になった。コロンビアから専属を請われたが、高野は26歳で亡くなった。葬儀後、遺品を整理すると3冊の作詞ノートが出て来た。二代目作曲家船村徹が誕生した。この先はヒットメーカーとして有名な曲の誕生秘話が続く。美空ひばり、村田英雄との関係や、後に再婚相手となった能沢佳子とのこと、弟子の越前二郎など。