時国益夫(麒麟麦酒社長) 私の履歴書 経済人11

昭和55年11月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

能登の生家は平氏の落人平時国の末裔

②父母の配慮で小学校の頃から金沢へ寄宿

③四高から東大へ―科学一筋の学生時代

醸造学専攻が縁で麒麟麦酒に無試験入社

⑤フジビールの吸収を機会に仙台へ転任

⑥欧米視察-本場ビールの風味に感心

⑦日華事変に促されホップの国産化を急ぐ

⑧心労で胃を病む-牛乳だけの二ヵ月間

⑨需要の波に乗って新工場を次々と建設

⑩ビール百年今では欠かさぬ国民の飲み物

 

明治26年2月12日能登半島生まれ。先祖の平大納言時忠の子、時国、私の父はその22代目。時忠は清盛の義兄。生家はわが国最大の民家で、輪島市文化財に指定されている。金沢中、第四高等学校第二部工科、東大工学部応用化学科へ入学し、醸造学を志し、卒業後はキリンビールに就職。甲種合格し東京の中野伝信隊を志願。軍隊生活を終えると、尼崎工場、仙台工場の後、6か月の欧米視察旅行に出掛け、国民の味覚に合ったものを作ればよいとの収穫を得た。仙台工場長として国産ホップを開発し、仙台には19年住んだ。歴代宮城県知事とは殆ど顔見知りとなり、取締役に選ばれ横浜工場長に転任。戦後は一時的に経営困難のために多角経営をやったが、ビールの生産が軌道にのると、副業は姿を消した。昭和28年に常務となり、東京工場、横浜第二工場、名古屋工場、高崎工場、福岡工場を作った。私は一工場の生産量に見合うだけ売れるようになって初めてその地域に工場を建設した。昭和33年専務になり、昭和41年に河村社長のあとをついで社長に就任した。仙台にいたころ、仙台工場長の神田三吾さんが催す訓話会で哲学の先生から聞いた“小我をすてて大我につかなければならない”という話から、おのれの小ささを知り無理をしないで技術者としての専門の道をコツコツと歩んでいけば良いと理解した。「ムリをしない」「ムダをしない」「お客を大切にする」というキリン商法は当たり前のことをやっているに過ぎない。(昭和44年3月、麒麟麦酒会長。46年9月、同相談役)