江戸の海《上》 白石一郎

2016年12月10日発行

 

江戸の海

 佃島の入江で早朝に釣り糸を垂れる岩蔵と的場金八郎はキスやハゼを釣っている。そこから屋根船で釣りを楽しむ女の姿が見える。何回か見かける女で、おさえといった。この日、おさえが岡釣りに参加してきた。金八郎の妻おたえは姑に叱られ放しで1年持たずに出て行った。ある時、岩蔵と金八郎とおさえの3人が船を出して釣りに出るが、木更津まで流された。岩蔵はかつて5歳になる自分の子供が馬に蹴られて死んだ時に助けられなかったことを悔やんでいるのを口にし、おさえは妾でお腹を痛めて生んだ子が2人いたが、2人とも旦那の奥方に取り上げられたことを口にした。旦那は金八郎の主だった。おさえが口にきいてくれたことで無役だった金八郎は御徒士見習の役目が与えられた。金八郎が磯場で再び釣り糸を垂らすと、おさえからは釣りと縁がなくなった人と言われ、岩蔵からも江戸の魚はかからないと言われ、本当にそんな気がしてきた。

 

島火事

火事の翌日、長栄丸に、出立する直前に船宿の主人と村役人から昨夜から姿を消した女が乗っていないか尋ねられた船頭の仁右衛門はいないと断言して出立したが、その後、水夫頭の源次から、女の話に同情して忍ばせてしまったことを打ち明けられる。引き返そうとしたが、女が船から海に身を投じたため、源次も飛び込み、やむなく源次をつけて女を陸に降ろした。だが、後に女の話は全て嘘だったことが分かる。気のふれた女だったために虚しさだけが残った。

 

十人義士

町年寄高木彦右衛門の中間2人が酒に酔って、深堀三右衛門の中間彦六が泥水の飛沫を誤って浴びせたことがきっかけで喧嘩になり、武士に対する長崎町人の根強い反感もあって三右衛門の屋敷にまで押しかけて三右衛門を殴打し太刀を奪って引き上げるという事件が起きた。彦六には大袈裟に話をする癖があった。三右衛門は太刀を穏便に取り返したいだけだったが、話が大きくなり、深堀家から大勢の武士が集まり高木屋敷へ討ち入ることになって乱闘騒ぎとなり彦右衛門の胸を刺し貫くと、三右衛門は本懐を遂げたとして切腹した。吉良邸討ち入りの1年前の出来事である。のちに深堀忠臣蔵と呼ばれる。。深堀十人義士の墓を見るたびに、彦六は俺のせいではなないが、本当にえらいことになったなあと気が重くなった。

 

海の御神輿

福岡藩黒田家の御馬廻組に属する立花清兵衛は寺社奉行をつとめており、その三男小八郎に幕府直参の御船手同心の婿養子の縁談話が持ち込まれ、小八郎は江戸に出向き衣笠家の娘お蝶と祝言を挙げた。衣笠銀次郎から天地丸が徳川水軍の旗艦と聞き、家光の御座船として建造されて153年が経過したが、船というより御神輿だった。仕事らしい仕事はなく、御船手頭5人に30人ずつの同心がつくだけなので、水夫を入れても徳川家の御船方は430人程度しかいなかった。黒田家の御船型の人数は水夫を含め8百余人なのに。63年ぶりに将軍が浜御殿を御覧になるために天地丸が動かされたが、船行列の見物が急遽取り止めになり、天地丸の水夫たちは天地丸の激しい横揺れと縦揺れに吐き続けていたが、小八郎は福岡に戻ろうと思った。幕府の御船方への未練は何もなかった。

 

勤番ざむらい

西国の田舎の藩から江戸へ出てきて月の勤務は僅か8日。時間を見つけては江戸の町を見学していた市五郎はある時掏摸を働く少年を捕まえたことがきっかけで、ある老人と知り合う。初めは居酒屋から別の屋敷に移って22,3歳の中年増の娼妓を抱き、次は釣りの帰りに小座敷で32歳の老人の娘を抱いた。勤番ざむらいは1年で国に戻るのであとくされがないために市五郎に白羽の矢が立った。市五郎は門限破りの代償として家禄が削られ、国帰りとなった。