昭和59年2月2日1版1刷
①陶工13代
②有田生まれ
③信心深かった祖父
④悲しい母
⑤二つの柿右衛門
⑥有田工業学校
⑦父との対立
⑧給料もらえず
⑨徴兵検査にパス
⑩昭和13年応召
⑪大陸駐留
⑫帰国・召集解除
⑬終戦
⑭にごし手復活
⑮赤絵ことはじめ
⑯赤の絵の具
⑰土合わせ
⑱火まかせ
⑲父子協力
⑳柿右衛門の系譜
㉑土型
㉒13代襲名
㉓焼き物のいのち
㉔忘れ得ぬ人々
㉕野の花
・明治39年9月20日佐賀県生まれ。柿右衛門窯のある有田皿山は南川良と呼ばれる地にあり現有田駅から西南1キロ余のところにある。有田皿山は1594年に挑戦国から李参平が窯を興したのが始まりと伝えられている。李参平にやや遅れ、酒井田円西が有田郷南川原に移り、その息子が初代柿右衛門で、私はそれから三百年後に子孫として生を受けた。明治18年に角福のマークを商標登録したが、訴訟沙汰になり経済的には窮した。父の代に柿右衛門合資会社が設立され、角福マークの商標は会社所有になったが、父は事業家小畑秀吉と意見が合わず会社から退き、家では柿右衛門の銘を商標登録した。和解後、代替わりし、契約期間が切れたこともあり角福銘を戻してくれたが、使うことはなかった。県立有田工業学校製陶科卒業後、父の仕事を手伝ったが、対立することが多く35年も対立が続いた。戦後、私が柿右衛門を取り仕切るようになった。父に「にごし手」の復活を説いた。昭和30年、にごし手は国の無形文化財に指定された。4代までが初期柿右衛門、7代までが中期、8代から10代までが後期柿右衛門とされる。父の名で出品し賞を得たことがある。昭和38年、56歳で襲名手続を取った。(昭和57年7月3日死去)