「甘え」の構造 土居健郎

昭和46年2月25日初版第一刷
昭和60年4月30日第2版13刷発行(通算138刷)

昭和32年ー46年 聖路加国際病院神経科医長
昭和46年ー55年 東京大学医学部教授
昭和55年ー57年 国際基督大学教授
現在 国立精神衛生研究所所長

帯封に「『甘え』という言葉は当初、日本人の心理や日本文化の特徴を表すキーワードと考えられた。しかし『甘え』が、精神病理一般、文化を超えて、人間に共通する感情や人間関係を理解するうえで欠かせない概念であることは、今や世界的に認識されるに至った。本書のフランス語版書評が『思想』に掲載された」とある。

「日本には集団から独立した個人の自由が確立されていないばかりでなく、個人や個々の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しいように思われる。そしてそのことも、以上説明してきた内と外という風に日本人が生活空間を区別し、それぞれにおいて異る行動の規範を用いても、一向に怪しまない事実に由来すると考えられる。日本人がいわば理性的に行動するのは遠慮のある場合であるが、しかしこの遠慮を働かせねばならないサークルも、遠慮を要しない外部の世界に対しては内と意識されるのであって、本当の意味ではパブリックではない。大体内と外という分け方が個人的なものである。しかもそれが社会的に容認されているのであるから、パブリックの精神が育つわけはないのである。内外の区別ははっきりしているが、公私の区別ははっきりしないのであるから、公私混同が起きるはずであり、公共物が容易に私物化されるのも当然であるといわなければならない。また日本の社会で、学閥・藩閥・閏閥・財閥・軍閥等、従来閥が跋扈して政治的勢力となるのも同じ理由にもとづくのであろう。もっと閥が跋扈するのは日本だけに限られた現象とはいえない。また日本で特に顕著な内と外の区別は、日本独特の発明ではなく、人間一般に共通した傾向であるともいわねばならないであろう。しかし少なくとも欧米の社会にあっては、このような自然的傾向をチェックするものとして、一方に集団を超える個人の自由の精神があり、他方にパブリックの精神があったということができるのである」(41~42p)