なかなか読み進むのに時間がかかる、難しい入門書です。ただ、ハンナ・アレントの回の内容を復習すると、わかりやくすなったのも事実です。本書には随所にアレントの言葉が引かれているのもそのためのように思います。
第1回 善悪
「善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。(第4部序言)」
第2回 本質
第3回 自由
「ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されます。行為の矢印が、私から外に向かっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。しかしスピノザはそのような単純な仕方ではこれらを定義しませんでした。スピノザは、私が行為の原因になっている時ーつまり、私の外や私の内で、私を原因にする何ごとかが起こる時ー私は能動なのだと言いました。先の原因/結果の概念を用いるならば、この定義を次のように言い換えられることになります。私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動であり、それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である」
「自発的であるとは、何ものからも影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何ごとかをなすことを言います。スピノザ哲学においては、そのような自発性は否定されます。なぜならば、いかかる行為にも原因があるからです。自分が自発的に何かをしたと思えるのは、単にその原因を意識できていないからです。私たちの意識は結果だけを受け取るようにできています」「ですから、私たちが自発性を信じてしまうことには理由があるわけですが、しかし、実際にはそのようなものは存在しえません。この自発性は一般に『自由意志』と呼ばれています」
「例えば人間が自らを自由であると思っているのは、〈すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは〉誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。(第2部定理35備考)」
「意志の概念はまさしく信仰の中で発見されていきました。それを作ったのは、パウロやアウグスティヌスらのキリスト教哲学であったとアレントは言っています。意志の概念がいつどうやって始まったのかを確定することは困難です。」「私はこの意志という概念に現代社会が取り憑かれているという気がしてなりません」
第4回 真理
「実に、光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。(第2部定理43備考)」