2014 年 12 月 20 日 初版第 1 刷発行
2012 年 10 月。建てられた当時のままに復原された東京駅。設計したのは日本の近代建築を開いた辰野金吾。金吾は江戸が間もなく終わりを告げる 1854 年の佐賀県唐津市に下級武士の子として生まれ、体も小さく自信なげな少年だったが、身分を問わずに入学できた英語学校「耐恒寮」(たいこうりょう)で学び、<士にして居を懐うは、以て士と為すに足らず>の論語の一節を学んで雷に打たれ、一心に勉学に励むようになる。耐恒寮で東太郎(後の高橋是清)から薫陶を受け、気難しい父から援助を受けて上京し、狭き門だった官費入学の許可を得て工部大学校(東京大学)に入学し、建築学科(当時は造家学科)を専攻し、人の 2 倍、4 倍の努力を重ねて主席で卒業。在学中にイギリスから赴任したコンドル先生に学び、留学先のイリスではバージェスから学ぶ。バージェスから日本の絵画や美術品のことを質問され何も答えられないでいると、バージェスからは、“建築は国の文化と深くつなっがっていて、国の風土や歴史と密接に関係しているから、それを無視してよい建物は作れないし、建築家にはなれない”と指摘され、日本文化を学び直すとともに、ヨーロッパの美術館、駅、宮殿、城、大聖堂、教会などを視察し、多くのスケッチを残す。帰国後、造家学科教師として採用され、日本銀行の設計を任され、耐震性を高めるために階ごとに素材を変え(1階は石造り、2・3 階はレンガを積み外側に石を張り付けて丈夫でかつ軽くした)、現実化した。その後、帝国大学工科大学の学長を務め、後輩育成に尽力しながら、東京駅の設計も任されるに至る。その途中で、和風を取り入れた日本勧業銀行本店の設計や、ドイツでの学びを生かした横浜正金銀行の設計を手掛けるなどしたライバル妻木頼黄(つまきよりなか)が現れ、国会議事堂建築をめぐってすったもんだが起きたり、学長をやめたりする事態が起きるが
長年の親友ともいえる曾禰(そね)達蔵からは、晩年に心温まる励ましを受け、多くの後進達から辰野式を追いかけられることになると聞かされて、涙をこぼすという場面で終わる。
明治の人って、本当に凄い。今もまた時代の転換期だ。であるからこそ、真剣に学び勉強し続けなければ、およそ使い物にならないと痛切に感じる昨今である。
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