エリノア・ルーズベルト デイビッド・ウィナー 箕浦万里子訳  アメリカ大統領夫人で、世界人権宣言の起草に大きな役割を果たした人道主義者

 1994年2月 初版第1刷

 

世界人権宣言の起草、採択に当たって、国連人権委員会の設立のための委員会の委員長に任命され、人権委員会で4年間委員長を努めたエリノア。1948年12月2日、世界人権宣言が国連により採択される。エリノア64歳。68歳で人権委員会アメリカ代表を辞任した後もボランティア活動に精を出し、世界的指導者として各国に迎え入れられる。夫フランクリンと結婚した後、家庭に入り、夫を支えていたエリノアの人生を変えたのは、1919年、フランスの戦場跡の大量の死体を目にした時。一生をかけて平和を訴えていこうと心に誓う。また同時に夫の不倫を知ったため、結婚生活は破綻するものの、政治や人生の上では深い信頼関係を持ち続けたこと。本人はこのことを公表しながったが、友人や伝記作家には打ち明けていた。こうしてエレノアは平和、公民権、そして女性の地位向上のための運動の世界へと飛び込んでいった。夫のフランクリン・ルーズベルトが小児マヒのために歩けなくなった後、夫の片腕として行動力を発揮し、ファーストレデイとしてだけでなく、自ら行動し、コラムニストとしても活動する。1945年4月12日フランクリン・ルーズベルトが急死するも、アメリカ代表として第1回国連総会に出席し、世界人権宣言の採択にこぎつける。確かに西と東とでは「人権」の意味そのものが異なって捉えられている中で世界人権宣言の採択にこぎつけるためにはギリギリまで忍耐力をもって作り上げられていった世界人権宣言。

エレノアは、10年後、「普遍的な人権とは、どこからはじまるのでしょう。じつは、家の周囲など、小さな場所からなのです。あまりにも身近すぎて、世界地図などにはのっていません。ご近所の人、かよっている学校、働いている工場や農場、会社などの個人の世界こそ、はじまりの場なのです。そんな場所で、男性、女性、子どもが、差別なく、おなじように、正義、機会の均等、尊厳を求めるべきなのです。これらの権利が、そこで無意味なら、どこにいっても無意味です。住んでいる場所の近くで、この権利を求める市民行動がなければ、さらに大きな世界での改善を求めてもむだでしょう」と書いている。75歳の時、ブランアイス大学の客員講師となるが、客員講師となったのは「教授」という肩書には値しないから拒否したからだと。1961年亡くなる1年前、アメリカの「もっとも尊敬されている女性」に選ばれ、その年、ケネディが大統領となり、再度、エリノアは国連のアメリカ代表に復活するも、血液の病気により1962年11月7日死去。享年78歳。