昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷
①家が貧しく教科書を借りて写す
②ブドー酒のはかり売りで当てる
③グリコーゲンの事業に乗り出す
④“一粒三百メートル”の着想
⑥創業期の苦闘・返品の山
⑦二二んが五の商法を確立
⑧思いがけない“商難”
⑨ビスコを発売第二の“創業”
⑩戦災でふり出しに戻る
⑪広告は資産“記憶は焼けない”
⑫「事業奉仕即幸福」が座右銘
・明治15年12月23日佐賀県生まれ。小学校高等科を卒業後、家業の薬種業を引き継いだ。グリコを始めたのは40歳過ぎてから。本業の薬種業の傍ら、ブドウ酒成金になった。牡蠣に多量のグリコーゲンが含まれているのを雑誌で知っていたので漁師のふきでる牡蠣の煮汁をもらい受け、これを病気を防ぐための体力作りに使う事業化を考え、アメ菓子にした。ゴールインの姿をグリコのマークにし、スローガンに一粒三百メートルを選んだ。これは事実それだけのカロリーが含まれているからである。断られても断られても三越参りを続け、三越の売り場で遂にグリコを並べることができたのが2月11日。会社の創立記念日とした。グリコのオマケを生み出す創意工夫にグリコ発展の原動力があった。グリコが生産能力の2倍に達する注文が来るようになり慎重にも慎重を重ねて新工場を立てた。また創業の熱意を失わないようにするためグリコにつぐビスコの発売を思いついた。父の訓戒を父の遺志として分相応に社会のお役に立ちたいと考えて母子健康協会を発足させた。戦後、28人の従業員と再開し、順調に発展させることができた。食堂の片隅で寝泊まりしていた私を気の毒がって従業員諸君がカネを出しあって大阪工場の一隅に建ててもらった家を掬泉庵と名付けた。返礼に野外ステージを作り憩いの場にしてもらった。事業奉仕即幸福、事業を道楽化し、死ぬまで働きつづけ、学びつづけ、息が切れたら事業の墓場に眠る。座右の銘である。(昭和48年より江崎グリコ会長。55年2月2日死去)