淑女失格 私の履歴書 佐藤愛子

1990年8月23日1刷発行

 

大正12年11月5日大阪市生まれ。戸籍上はなぜか11月25日。甲南高等女学校は「淑徳を涵養」するのが目的の学校だったが、恥ずかしがり屋から父の激しい血を受けて本来の私が出てきて何かというとしゃしゃり出て演説をぶつ女学生になった。卒業後、雙葉学園の英語科に入ったがすぐにやめてしまった。二十歳で結婚し男子をもうけて終戦となった。夫は腸疾患がもとで麻薬中毒ななり、人生が一変した。夫は入退院を繰り返し、私は母の勧めで小説を書き始めた。父の友人の加藤武雄さんに傑作だと誉められて自信を持つことが出来た。ただ雑誌社を回ってもけなされるばかりだった。文芸首都の吉富利通さんの激励のはがきは希望の光となった。文芸首都賞を貰った。毎日が苦しかったが、「あなたがモノになるかならないかは、とにもかくにも十年、ひとつのことだけを専心やれるかどうかにかかっている」と言われ、この道を歩み続けた。母と喧嘩して家を出て聖路加病院で働いた。聖路加をやめて30歳で2度目の結婚をした。夫らと「半世界」という同人誌を作り、デッサンという小品を書き、創刊号を吉田一穂先生に届けた。「ソクラテスの妻」が芥川賞の候補になり、それがきっかけで「悪妻の見本」となり、「悪妻の横綱」となり、男性攻撃の第一人者になっていった。2億の借金をこさえて夫の会社が倒産した。整体操法を習っていた臼井栄子先生から苦しいことの中に居座ってしまいなさい、いっそ楽になりますとアドバイスされ、勇気を貰った。夫と偽装離婚するつもりだったが、夫は別の女と結婚し、私には借金が残った。20年目となる「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞したが、時期が悪く喜べなかったため、生意気な奴と嫌われる羽目になった。その後が大変だった。朝九時から夕食まで、夜は10時から午前4時頃まで机に向かった。私はいいたいことをいい、したいようにしてきた。人を羨望せず、羨まず、怨まず、おもねらず、(その代わり損や誤解を山のように背負ったが)正直にありのままに生きてきた。ただ一所懸命に私なりの真面目さで生きてきた。私にいえることはそれだけだ。」]